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2010年9月10日 (金)

1996年10月 読書感 壇 沢木耕太郎著

「壇」読後記
 私小説は残酷である。
 小説の多くが作家の体験やその他の事象をベースにしたり、参考にしたりして成り立っているが、私小説は100%それが基本である。
 作家は自分のことをどう書くであろうか。美化するだろうか、卑下するだろうか・・・いずれにしても書くのは「自分」である。どう書こうと自己責任だ。一番悲惨なのは作家以外の登場人物、「書かれる人」である。全ては作家の筆に価値を委ねているわけで、書かれてしまえばそれでおしまい。事実と違っていてもそれを正すのは容易ではない。「書かれる人」は圧倒的に無力なのである。
 沢木は「書かれる側」にこだわっている。彼は「市井の人はインタビューなど迷惑なものだ」と以前から考えている。彼がルポルタージュを書くとき必要なのは取材であり、インタビューである。かなり屈折した精神で取材を続けている彼に「壇ヨソ子」の存在はとても興味があったのだろう。「書かれる側」へのシンパシイーを強く感じていたのだろう。「ヨソ子」は書かれるだけである。作品はベストセラーになったが、「書かれた側」はどんな思いでいたのか・・・。
 作品は「膨大な取材を基にシーンを組み立てて、事実に近づいていく」という彼の手法がそのままとられている。しかし今までは短編が殆どだった。長編として発表されたものは「深夜特急」でも「一瞬の夏」でも主人公は沢木自身で、彼が状況の中へは入っていき、自分で体験したこと、見たことを書いていた。長編、「テロルの決算」は当時の社会党書記長を刺した「山口」を主人公にしてはいるが、事件そのものへのアプローチが大きな比重を占めていた。
 主人公は一人称で登場する。「ヨソ子」が語る形である。当然膨大な量のインタビューがその裏には存在する。彼が今までこだわっていた「書かれる側」の代表格(?)を対象として、自分の方法論の全てをつぎ込んだこの作品は沢木の一つの到達点であろう。
 僕自身は内容に一つの楽しみを持っていた。「火宅の人」を読んだ者として「どうしてヨソ子は離婚しなかったのか?」という疑問への回答である。しかし、読んでみてやはり「ワカンナイ」であった。環境も含めて、大正女性の性であろうか。現在なら、僕のカミさんなら、「事を起こした」と告げた瞬間に家を出ていくのは同じだろうが、「僕が悪かった。猛省します。」とかなんとか言って大騒ぎしなければ家に帰ってこないだろう(大騒ぎしても帰ってくるかな?)。少なくとも山の上ホテルで一緒に暮らしていれば、結論は「離婚」しかない。それ以外には考えられないはずだ。あみんの「私待つわ~」じゃあるまいし、どのような精神状況なのか。ン~ワカンナイ。

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