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2011年1月24日 (月)

両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」その1

 西河内の一番奥の大平という所に。作右衛門という人が住んでいました。
 ものすごく大きな男の人で、肩や胸や腕の筋肉が盛り上がり、その大きな胸にはお乳が四つもあって、普通の人の倍ありました。村の人たちは、その身体を見て、二人分の身体が一つになった、すごい力持ちの人だと、褒めたり、怖がったりしていました。

 作右衛門はある日、庵原の杉山という部落を通りかかりました。
 ふと見ると、一つの大きな石の回りに、5~6人の力の強そうな大人の人たちが集まってガヤガヤと相談していました。
 「何だろう?」と作右衛門がのぞき込むと、大きな石碑をどこかに運ぶために、皆で持ち上げようとしているのですが、あまりに重くて持ち上がりません。
 「何だ、おまえらは意気地がねぇだの、俺なら一人でこんな石の一つや二つ、軽く運んでみせるわい。」そう言って、スタコラ通り過ぎると、それを聞いた男の人たちは大変怒って、「おまえがそんなでかい口をたたくなら、この石を興津まで運んでみろ。」と言って、一人では運べるはずがないと思って、作右衛門を困らせてやろうと思いました。
 作右衛門はニヤッと笑って、「ほいきた、おやすいご用じゃ。」
 皆がどうするか、とジッと見つめていると、作右衛門はヒョイと軽そうに石碑を背負って、スタコラ歩き出しました。
 通りの家の人たちはみんな飛び出してきて、作右衛門の力の強いのにびっくり。
 そのうちに、作右衛門は鼻歌を唄いながら大きな石碑を興津まで運んでしまいました。興津の人たちもびっくり。こんな力の強い人は見たこともない。
「是非、名前を聞かせてください。運んでくれたお礼に石碑に名前を彫らせましょう。」と言いましたが、作右衛門は、「こんな簡単な仕事で、ワシの名前を石碑に彫るなど、とんでもねぇこった。」と言い、聞き入れません。仕方がないので石碑の底に作右衛門の名前を彫ることでようやく承知したということです。Photo
 今でもこの石碑は興津の甲州道の入り口に建っています。本当に石碑の底に作右衛門の名前があるかどうかわかりませんが、皆はあると思っています。

 写真が興津の甲州道入り口に立つ、民話の石碑です。

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その2

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その3

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