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2011年4月30日 (土)

ワラビの収穫

110429  4月後半の楽しみの一つに「ワラビとり」があります。知り合いの山へ「とらせて下さいね」とお断りを入れてから、入山です。雨上がりに行けば、出てるわ出てるわ。今回もどっさりとらせてもらいました。
 ワラビはコンスタントに収穫していれば6月まではとり続けることができます。まぁ、そこまで食べる人はいないでしょうが。
 しばらく、ワラビパーディができますな♪

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2011年4月28日 (木)

ブルーベリーの花盛り

110424  この春にブルーベリーの木を4本いただきました。結構大きな鉢に植えられていましたので、トラックを借りて運びました。
 その木々が今花盛り。ドウダンツツジの花に似て、かわいい花です。
ブルーベリーは我が家に今まで2本あったので、これで6本。今年はたくさん食べられるかな。

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2011年4月27日 (水)

布沢 善光寺

Photo  たけのこ祭りで、毎年、多くのお客さんが来る、布沢地区。この祭り、正式には「善光寺とたけのこ祭り」といいます。その善光寺は、たけのこ祭りの会場となる場所の近くにあります。しかし、殆ど訪れる人はいなくて、祭り会場のにぎわいと比べると、えらく淋しいですな。
 ここは、武田信玄が駿河に進講して江尻城を築いた当時、軍用道路として整備された道の近くの高台にあります。善光寺はいつ創建されたのか、不明だそうですが、ここから、信玄などの行軍を眺めていたのでしょう。

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2011年4月26日 (火)

甘夏ミカンの収穫

110424_2  今年も甘夏ミカン収穫の時期となりました。何故か昼食時の風景ですが、ご容赦下さい。三保半島や駿河湾を眺めながらのお昼ご飯は最高です。この前後は真面目にみかん切りに勤しみましたから、念のため、笑。
 甘夏を食べると初夏を感じます。

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2011年4月25日 (月)

静岡地震で壊れた石垣は、今

110418  2009年8月に起きた静岡地震。駿府城お堀の石垣は4カ所が崩壊しましたが、少しずつ復旧しています。写真は静岡県庁の裏側。時々、別館の21階から撮っている崩壊現場でした。地震直後の写真と比べてみてください。
 最後まで工事が続いているのは、県庁と静岡市葵区役所(旧静岡市役所)との間の所のようです。

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2011年4月24日 (日)

東日本大震災チャリティライブin西河内、盛況の内に終わる

110424  東日本大震災チャリティライブin西河内は大雨にもかかわらず、約100名の参加者がありました。出演題目も20を超え、変化のある企画となりました。多くの方々にご協力いただき、義援金も最終的に10万円を超えました。週明け早々に義援金として届ける予定です。
 写真は今朝の静岡新聞です。様子を取材に来ていただき、記事が載りました。たまたま、隣に両河内の新茶に関する記事が出ていましたので、合わせてご覧下さい。皆様、ありがとうございました。

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2011年4月23日 (土)

東日本大震災チャリティライブin西河内

Img  東日本大震災への義援金を集めるチャリティライブを4月23日(土)に、西河内小学校で行います。詳しくはチラシをご覧下さい。

 当日まではこの記事をトップにし続けます。新しい記事はこの下へ出しますのでよろしくお願いします。

 東日本大震災チャリティライブin西河内チラシPDF

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2011年4月22日 (金)

梶原景時史跡めぐり その14 塔婆山??

Photo_4  大内や柏尾から山を越えた長尾にいた豪族の長尾氏は梶原と同族でした。その長尾氏が梶原山と向かい合う形になっている山の上に塔婆を立てて、景時を供養しました。そこは塔婆山と言っていましたが、現在ではその名は残っていません。柏尾峠がそれではないか、との説もあります。さて、真相はどうなのでしょう???

 梶原景時史跡めぐり その13

 梶原景時史跡めぐり その15

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2011年4月21日 (木)

梶原景時史跡めぐり その13 梶原堂

Photo_2  景時と一緒に自害した景高の子、景俊は梶原山の自害した地に祠(ほこら)を建てて、傍らに景時親子三人の墓を作ります。この祠を「梶原堂」と言います。その後、160年して、景時の八代の孫、景慶(かげよし)が矢崎山の山腹に梶原龍泉院(寺)を建てて、景時とその一族を祀ったとされます。
 そして時代が移り、明治元年の神仏分離令で龍泉院は廃寺になり、残された梶原堂は昭和37年に東名高速道路の建設工事の際、山腹から現在の大内の地へ移されます。

Photo_3  右側の並んだ石碑が梶原親子の墓です。
 現在でもこの地域では3月の第一日曜日に供養際を開いています。

 梶原景時史跡めぐり その12

 梶原景時史跡めぐり その14

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2011年4月20日 (水)

やっと?タケノコの季節

Photo  今年はタケノコにとっても大変な年のようです。昨年夏と今年冬(1~2月頃)の小雨と春の低温がその原因です。我が地域でもタケノコが「やっと」出回ってきた感じです。
 もう、お茶の仕事も忙しくなり始める時期ですので、今年はタケノコさんも掘られる期間が短そうです。

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2011年4月19日 (火)

2011年4月新静岡センター工事進捗状況

110418  いよいよ、新しくできた、新静岡センターの全貌が現れてきました。以前はバスターミナルだった場所も建物となったので、やはりデカイです。完成まであと半年。やはり楽しみですな。

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2011年4月18日 (月)

あら、アラレが降った

Photo  先週のある日の午後。パラパと音がしてきてアラレが降ってきました。ヒョウとアラレの違いは、単に大きさの違いだけのようですね。今回のは小さいのでアラレのようです。なんだか久しぶりに出会ったようです。

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2011年4月17日 (日)

河内の桜並木

2011  今年は桜も遅かったですね。今日辺りは盛りを過ぎましたが、満開したのは4月中旬。早い年なら、3月の下旬頃の時もあるのに。
 我が河内もバイパスの興津川沿いの桜の木が大きくなってきました。この桜並木、植える話が出た時に、「桜が大きくなって大風で揺すられると土手が崩れる恐れがあるから大平では植えない」、「なら河内は植える場所がたくさんあるからちょうだい」と話しがあったとか。確かに河内は立派な桜並木が続いていますが、大平地区に桜並木はありませんな。

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2011年4月16日 (土)

ツバメさん、いらっしゃい♪

110415  今年も近所にツバメがやってきました。しかし、今年は、「やっと」という感じです。早い年には3月20日頃には来ている、とはいつも見ている人の弁。私が気づくのも4月の初め頃です。しかし、今年は3日ぐらい前にやってきました。やはり寒さが続いていたせいでしょうか。でも、今年も子育てにがんばってくださいね。

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2011年4月15日 (金)

いなくなったメガフロート

Photo_2  先日記事にした、清水港のメガフロート。あの後、すぐに港を離れて、改造するために横浜へ曳航されていきました・・ドナドナドナ・・。メガフロートは長さ136mもありましたので、なくなると存在の大きさが改めてわかります。
 もう、清水港に帰ってくることはないでしょうかが、あの巨大な構造物に対して、東電が静岡市にいくら払うのでしょうね。気になりますな。

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2011年4月14日 (木)

梶原景時史跡めぐり その12 清水市史

Photo  また、「清水市史」第一巻によりますと、梶原親子などの首をさらした場所は現在の高源寺(史跡めぐり その6)ではないか、とされてします。
 その首をさらした場所が、東関紀行の記述にある石を高く積み上げた墓となり、後に高源寺移転してきて、「その6」で紹介した「不尽乾坤燈外燈」、の碑が立てられたのではないか、と推測しています。

 梶原景時史跡めぐり その11Photo_2

 梶原景時史跡めぐり その13

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2011年4月13日 (水)

梶原景時史跡めぐり その11 東関紀行

1  さて、東関紀行(とうかんきこう)という本があります。これは作者不詳ですが、1249年に京都から鎌倉までの旅道中を記した書物で、後の平家物語や松尾芭蕉などにも大きな影響を与えた本です。その中に、
「ある木陰に石を高く積み上げて、目に立つさまなる塚あり。人に尋ぬれば梶原が墓となん答う。」
とあります。

4  この東関紀行は景時が死んでから約50年後に書かれた紀行文ですので、景時の墓は亡くなってからすぐに建てられたことがわかります。時の権力から疎まれて討たれた者の墓が、その死から程なく作られたのは異例ともいえるでしょう。そこには、景時が死んでから何年も経たぬうちに、社会情勢が変わりその死を悼むようになった背景があります。

 梶原景時史跡めぐり その10

 梶原景時史跡めぐり その12

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2011年4月12日 (火)

ミツマタ

Photo  近所の家に行きましたら、ミツマタの花が見事でした。当地区は昔から和紙生産が盛んでしたのでミツマタが植えられていたのです。
 現在はそんなミツマタ畑はありませんが、一部は野生化していて、山へ行くとミツマタを見つけることができます。しかし、このように庭に植えても今の時期、楽しめるものですね。我が家にも植えてみるかな。

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2011年4月11日 (月)

神楽石発見!!

Photo_2  河内二ノ宮神社が最初にできた場所として、日本武尊が休んだ陣地跡が発祥の地として「二ノ宮神社社伝」に書いてあるそうです。しかし、その神楽石がどこにあるのかわかりませんでした。神楽石のある元沢の方に聞いても、「さぁ???」。
 そこで二ノ宮神社の宮司も以前されていた方に聞きましたら、「ここいらじゃないか、行ったことはないけれど」、とのこと。早速「ここいら」へ行ってみました。
 神楽石と云うからにはそれなりの大きさの石か何か、だろうと思い探していましたら・・・ありました・・・これだよ、多分・・・。杉の植林の中なので最初はわかりませんでしたが、山の斜面に突き出すように大きな石が三つほど三角形に積み上がっています。こんな奇石なら神楽石と云われるのもうなずけます。三つの石の高さは10m程でしょうか。下の沢からは30mもあるでしょうか。これなら古い街道からもよく見えたことでしょう。現在でも植林や雑木がなければなかなか見応えのある風景になるでしょうに。
 一番近くの民家で80才を超えるジィさんを訪ねて聞いてみましたら、「神楽石だよ」。やった!!ただ、そのジィさんも二ノ宮神社の祠が大昔にあったことは知らない、とのこと。それでも、神楽石が見つかっただけでも先ずは大きな収穫でした。

 二ノ宮神社歴史探訪

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2011年4月10日 (日)

タケノコの季節

Photo  タケノコが出る季節となりました。放置竹林がどこの里山でも大問題となっていますが、整然と整備された竹林も当然、あります。写真は高山地区の竹林。よく日が当たるようにきれいに間引かれています。
 竹の間引きには、間引きしすぎると冬に雪が降った際に竹が折れてしまうので、それも心配。との声もよく聞きました。確かに竹は冬に落葉しませんので、雪が降るとかなりの量が付いてしまいます。そうなれば竹は弱いのでポキッといってしまいます。
 もう今年は雪の心配もありませんので、美味しいタケノコが出てくることを楽しみにしていましょう。

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2011年4月 9日 (土)

シカのトイレ

Photo_5  裏山で、今年もシカのトイレを見つけました。新しいフンがしてありましたので、今春のでしょうか。
 裏山でシカのトイレを見つけた話しを近所の人にしていたら、その彼女は子どもが小さい時にこのフンを見つけ、子どものお土産に家へ持って帰ったそうです。家族に見せたら、年寄りから真実を知らされ大笑いになったとか。街から嫁いできた彼女はシカのフンとは知らずに、ドングリか何かと思っていたそうです。確かにそう見える、といえば見える・・・かな????

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2011年4月 8日 (金)

梶原景時史跡めぐり その10 景時親子終焉の地

Photo_4  それから、親子三人は山頂の林の中の草の上へ静かに座りました。景時は矢立を取り出して、
「もののふ(武士)の かくこ(覚悟)もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみおしけれ」
と辞世の句をしたため自害します。享年は、生誕の年が判明しませんが、61才といわれています。
 その後、この山は梶原山と言われるようになり、現在でもそう呼ばれています。山頂には供養碑などが立ち、駿河湾の眺めがすばらしい(特に夜景?)、観光スポットとなっています。
 
2120 景時が没した正治2年は西暦では1200年ですが、1月20日当日の月齢はこのようになっています。景時は、こんな月を眺めて自害したのでしょうか。

 梶原景時史跡めぐり その9

 梶原景時史跡めぐり その11

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2011年4月 7日 (木)

梶原景時史跡めぐり その9 駒喰笹

Photo_3  また、この鬢水付近にあった笹は景時の愛馬「磨墨(するすみ)」が食べて、その後生えてくる笹は葉先が全部枯れて生えてくるようになったので、この笹を「駒喰笹(こまくいざさ)」と今でも言います。先日行った際にはまだ冬だったせいか、笹はまだありませんでした。
 この「磨墨」という馬、かなりの名馬だったようですが、景時の子、景季が佐々木高綱と戦陣を争った「宇治川の先陣争い」の際に乗っていた馬も「磨墨」といいます。時期を考えると同じ馬とは考えにくいので、名馬に同じ名前を付けたのかな、と想像しています。静岡市葵区の旧家には、この磨墨の頭蓋骨が保存されているとか。また、全国各地に磨墨を葬った墓もあるそうで(東京大田区の磨墨塚など)、歴史的な有名馬といえるのでしょう。

 梶原景時史跡めぐり その8

 梶原景時史跡めぐり その10

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2011年4月 6日 (水)

梶原景時史跡めぐり その8 鬢(びん)水

Photo_3  景時らが分け入った山ですが、矢崎と瀬名の境の尾根づたい進むと、通称「夕日無山(ゆうひなしやま)」といわれた279メートルの山なのです。この山頂には、わき水が出ています。私がいった時も冬の雨が降らない時期でしたが、水がチョロチョロ出ていました。
 山頂にわき水とは奇妙に感じがありますが、これは北にある竜爪山(標高1,000m強)からの伏流水が湧いているのです。
 この水で、景時らは顔を洗い、鬢(びん)を洗い乱れを直しました。それでここの水を現在でも「鬢洗い水」または、「鬢(びん)水」と言っています。

 梶原景時史跡めぐり その7

 梶原景時史跡めぐり その9

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2011年4月 4日 (月)

元沢峠より中部横断道工事現場を見る

11032  先日、元沢峠を通った際に、中部横断道の工事現場を少しアップで撮ってみました。山が真っ二つにV字型にえぐられて、工事が進んでいます。これから橋ができ、トンネルが掘られ、と風景が大きく変わります。1103_3
 右は少し引いた写真ですが、家の大きさと比べると工事規模の大きさがよくわかります。

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2011年4月 3日 (日)

静岡市メガフロート

Photo  清水港にある海づり公園、メガフロートを福島原発へ持って行くことになりました。緊急事態にオールジャパンで対応が必要ですので、放射能除去に貢献できれば、静岡市民としても協力は惜しみません。
 私は海づりなど、殆ど興味がありませんので、このメガフロートが設置された時もニュースで知っただけで、行ったこともありませんでした。しかし、なくなるとなると一度見てみよう、と行ってみました。もう、移動のための準備が始まっていました。後ろのクレーンは別のサルベージ船です。
 しかし、このメガフロートに原発事故で放射能汚染された水を入れるそうですが、その後の処理は未定、とのこと。家庭で言えば、家にゴミが出たから何とかしましょう、と袋に入れるところ。入れた後は行政のゴミ収集車に任せるわけですが、放射能の水はそこが決まっていません。どこの港でも受け入れには難色を示すでしょうし。
 昔、原子力艦「むつ」が入港を拒否され続けて、漂流していたことがありましたが、同じようになるのでしょうか。

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2011年4月 2日 (土)

梶原景時史跡めぐり その7 いよいよ最期の地へ

Photo_2 北街道を西へ戦いながら進んできた梶原軍ですが、各地で打撃を受け、軍勢はわずかしか残っていませんでした。
 清見関で始まった合戦ですが、それまでは平らなところで戦っていたのが、ここへ来て山がすぐ横に迫る地形となります。そうなると地元軍の方が地の利があり断然有利。
 この、大内の矢崎で(航空写真の左下の「大内」と書いてある辺り、67と書いてある細い黄色い道が北街道、これを右の方から進んできた)、吉香小次郎の計らいで裏山から攻め下っだった軍勢により、決定的な打撃を受けます。
 そして、景時は、子の景季(かげすえ)の勧めに従い、景時・景季・景高の親子三人は数人の味方の武士とともに山へ分け入ります。

 梶原景時史跡めぐり その6

 梶原景時史跡めぐり その8

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2011年4月 1日 (金)

梶原景時史跡めぐり その6 高源寺供養塔

Photo  清水区高橋の高源寺には梶原一族の碑があります。この碑の表には、
 「不尽乾坤燈外燈(ふじんけんこんとうがい(の)とう) 龍没(りゅうぼっす)」 とあります。
 そして、横には  「三十三人是也」 と刻まれています。
 この碑は南北朝時代に造られたものだそうです。景時が亡くなってから100年以上後ですね。
 禅書「塗毒鼓(つどくこ)」の巻頭にある杜牧(とぼく)の詩に同じ句があります。ですから、石碑を建てた際に教養人がこれを引用したのではないか、というのが高源寺住職の考えです。
 碑文の意味としては、「悠久の太陽や月の光に供養されて龍のような英雄がここに眠る」ということで、これは景時だけでなく、三十三人の武士はみな同じだ、と言っているのでしょう。
 また、景時の法名は「龍泉院」ですので、それも含んで書かれているのでしょう。 

 梶原景時史跡めぐり その5

 梶原景時史跡めぐり その7

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