両河内の民話

2011年12月20日 (火)

両河内の民話 中河内 黒地蔵

 昔、中河内の神沢原の村に玉泉寺というお寺があった。そこには、真っ黒にお地蔵様がご本尊として祀られていた。
 ある時、お寺にやってきた村の衆が、このお地蔵様を見ながら、
「いつ見ても、本当に真っ黒だのう。」
「こんななりじゃぁ、お地蔵さんもいやじゃろう。」
「ご利益もなさそうだ。」
と言っていた。そのうちに、
「そうじゃ。前の川へ持って行ってぴかぴかにしてやるら。」
と、話になった。
 大人の膝小僧ぐらいのお地蔵様を一人の村のものが軽々と担ぎ上げて、前の川へと運んで行った。そして、川の中へざぶんと入れた。村の衆はみんなでお地蔵様をごしごしと洗い始めた。 ところが洗っても洗ってもちっともきれいにならない。
「こんだけ洗ってもきれいにならんのなら、しょぅんない。もう寺へ持って行くか。」
 村の衆はお地蔵様を寺へ持って帰ることにした。ところが、お地蔵様を水の中から持ち上げようとすると、どうしたことかびくともしなた。みんなでかわるがわる持とうとしたが、根が生えたように動かない。
「わしらが、あんまり粗末にするんで、お地蔵さんが怒ったずらか。」
みんなは玉泉寺の和尚さんに知らせに走った。
 和尚様は川へとやって来るとお経を唱え始めた。そしてみんなもお地蔵様に謝った。
「どうか堪忍してくだせぇ。わしら悪気があったわけではないだで。」
 お経が終わってお地蔵様を持ち上げようとすると、今度はふわりと持ち上がった。村の衆はびっくりして、それからますます大事に祀ったそうな。
 このお地蔵様は弘法大師の作と伝えられ、玉泉寺が廃寺となった後、中河内の木山野の宝樹寺に引き取られ、今も大事に祀られている。また、同じ言い伝えがあるお地蔵様がもう一体、和田島の蔵珠寺にも祀られている。
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 写真が宝樹寺の黒地蔵。今でも毎日、お水とご飯が供えられています。

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2011年11月11日 (金)

両河内の民話 蛙がくれた手ぬぐい

 昔、興津川の上流にある山奥の村に二人の娘と仲良く暮らしている男がおった。ある時山へ薪を取りに行った。すると、一匹の蛇が蛙を飲みかけているのを見つけた。かわいそうに思った男は蛙を助けてやった。
 翌日、一人の若い侍が男の家を訪ねてきた。
「私は昨日の蛇です。餌の蛙を逃がされては私も命が保てない。その代わりにおまえの娘を一人くれぬか。」
男と娘たちは突然のことで途方にくれたが、とうとう妹が蛇に飲まれる決心をした。
 蛇侍は娘を連れ、山奥のある住処の大池へと歩いていった。池に着くと娘は家から持ってきたたくさんのヒョウタンを池に浮かべて言った。
「おまえさんがこのヒョウタンを一つ残らず沈めてくれたら、私も池へ入りましょう。」
蛇侍はザンブと池へ入るとヒョウタンを沈め始めた。しかし、一つ沈めると他が浮きなかなか全部沈められない。とうとう大蛇の姿になって沈め始めた。
 蛇が夢中になっている時、娘に話しかける声がした。娘が振り返ると一人のお婆さんが立っていた。
「私はあなたのお父さんに助けられた蛙です。これをかぶるとお婆さんの姿になるから、今のうちに逃げましょう。」
と言って、一本の汚い手ぬぐいを娘に手渡した。娘は手ぬぐいをかぶってお婆さんの姿になり、何日も逃げてある村の長者の家へと身を寄せた。娘はお婆さんの姿のままで、縫い物や掃除の仕事をやったりしていた。その仕事の早いことは長者の家でも評判になった。
 ある時娘は、庭の掃除をしていた。娘は蜘蛛の巣が貼っているのを見つけると、頭にかぶっていた汚い手ぬぐいをとって巣を払った。たちまち娘はお婆さんから美しい娘の姿へと戻った。
 それを見た長者の人々はたいそう驚き、娘に訳を聞いた。その一部始終を聞いた長者の息子は、
「是非、私の嫁になってください。」
と娘に申し込んだ。
 祝言の日が来た。娘は手ぬぐいを肩にかけた。すると娘は美しい花嫁衣装へと変わった。そして、いつまでも幸せに暮らしたそうな。111108

 写真は節分で恵方巻きを買ったらついていた鬼の面をつけられて、迷惑そうなタケゾウ君。


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2011年5月14日 (土)

両河内の民話 中河内樽「おくり狼」

 江戸の文化年間(1804~1818)のこと。中河内の樽というところに、力もあるし、肝も据わった若者がおり、炭焼きをして暮らしておった。朝は早く起きて、樽峠を越え、甲斐の国境のあたりで炭を焼き、日暮れになると、また峠を越えて帰ってくる、そんな毎日であった。
 ある日のこと、若者がいつものように薄暗い山道を急ぎ足で峠にさしかかると、後ろからヒタヒタと一匹の狼がついてくる。
(こいつは困った。走れば飛びかかってくる、倒れたりしたら食いつかれるにちがいない。弱ったことになったわい。)
若者はそう思いながら、どうすることもできず、用心しながら歩いていた。
 峠を越えたあたりで振り向くと、狼の姿はない。
 「やれやれ」
若者は額の汗をぬぐってほっとした。
 それからも炭焼きの帰り、峠の暗い道を歩いていると、また狼がついてくる。
 若者がそのたびに用心に用心を重ねて歩いていると、峠を下ったあたりでまた狼はどこかへ行ってしまう。
 次の日も、また次の日も、狼が若者の後をついてくる。
 そのうち、若者もすっかり慣れてしまい、狼が出てこないと淋しく思うようになった。
 ある晩、若者はついてくる狼に、
 「毎晩送ってくれて、おかけで夜道が淋しくなくてええわい。こりゃ、送ってくれる駄賃だ。」
と言って、塩を五合ばかり紙に包んでやった。狼が塩を好むと聞いたからである。
 次の日も峠あたりで狼が若者を待っていた。
 若者が近づくと狼は昨日のお礼のつもりか、イノシシの足をくわえて引きずってきて、若者に持って行けというそぶりをする。
 次の日には、若者がそのお礼にと赤飯を炊き、ごま塩をたっぷりかけて狼に食わせてやった。
 それからというもの、若者と狼はすっかり仲良しになって、峠の夜道を歩くのが楽しくなったという。

110507  写真は河内で見つけた「藤の花」。よく剪定されていて、小さいですが、満開でした。

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2011年2月 1日 (火)

両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」その3

 数々の力自慢のある作右衛門のところへ、ある日大平の役員衆が「ちょっくら、頼みてぇことがあるだけぇが・・・。」とやってきました。
 話を聞くと、大平の山の木は役に立たない木ばっかり生えている。ついては、この木を取り除いて、和紙の原料になる「かんぞう」という木を植えて興津川のきれいな水を使って、和紙を作ればお金にもなる。そう思って、みんなで幾日も役に立たない木を切っているのだが少しもはかどらない。どうか、力の強い作右衛門さん、手伝って欲しい・・・、とのこと。
 作右衛門は「村のためなら、おやすいご用で。」と引き受け、さっそく山奥へ入っていきました。
 村の人たちは作右衛門の仕事ぶりを見ようとゾロゾロと後からついて行きました。
 作右衛門は、大きな木をグッと抱きかかえてはユッサユッサと揺すり、「えぃ!!」と根っこから引き抜き、ポイッと捨てていきます。作右衛門にかかってきどんな大きな木も簡単に引き抜かれてしまいます。作右衛門の力を知っていた村の人たちは、改めてピックにしながらそれを見ていました。
 そして、大平の山はかんぞうの苗木をたくさん植えることができました。
 その後、かんぞうの木が大きくなり、その皮をむいて興津川のきれいな水で洗い、釜でゆでてドロドロになったものを、「すのこ」という道具を使って、一枚一枚紙の元を作りました。これをお日様で乾かすと和紙になります。
 できた和紙は「駿河半紙」と名前がつき、とても質のよい紙で高く売れ、みんなで楽しく暮らすことができた、ということです。

Photo  写真は、大平地区の南端から見た大平地区です。見えるところは全て大平です。しかし、山が赤いですね。杉の花粉が飛び出すのを待っているようです。

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その1

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その2

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2011年1月28日 (金)

両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」その2

 その昔、江尻という所では、毎年相撲大会が盛んに行われていました。
 五人負かすと優勝商品がもらえる、一番強い人を決める取り組みが始まっていました。
 一人の力の強い大男が四人目を負かして、まわりを睨みつけ、「誰か出る者はおらんか。俺の強いのにビックリしたか。みんな弱虫だのう。」と威張って馬鹿にしていました。
 いくら馬鹿にされても、あまりに強すぎるので、大勢の人たちは恐れて、誰一人向かっていこうとする者はありません。
 係の人も大声で、「誰か、次に出る人はいませんか。」と盛んに呼びかけていましたが、どうしても挑戦しようとする人はいません。
 仕方なく、四人負かしたところで優勝商品を渡そうとしました。
 ちょうどその時、作右衛門が通りかかりました。前から、作右衛門の力の強いことを知っていたので、みんな拍手をして大喜び。「出るのは、いやだなぁ。」と言っていた作右衛門をヤンヤヤンヤと無理に土俵へ押し上げました。
 「そんじゃぁ、やろうかい。」と言って、作右衛門はゆうゆうと着物を脱ぎましたが、「あっ、そうだ、相撲を取るにはマワシがいるわい。マワシをとってくる間、チョックシ待ってておくんな。」
 作右衛門は土俵を降りて、近くの竹藪に入り、片手で一本の太い竹を引き抜いて、ギュウと握りしめると、竹はバリバリと細かく割れてしまいました。
 それを腰にぐるぐる巻きつけて、「さぁ、やろうかい。」と作右衛門が土俵に上がった時にはさっきまで威張っていた大男は、作右衛門の力の強さにビックリして、逃げてしまい、姿がありませんでした。

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その1

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その3

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2011年1月24日 (月)

両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」その1

 西河内の一番奥の大平という所に。作右衛門という人が住んでいました。
 ものすごく大きな男の人で、肩や胸や腕の筋肉が盛り上がり、その大きな胸にはお乳が四つもあって、普通の人の倍ありました。村の人たちは、その身体を見て、二人分の身体が一つになった、すごい力持ちの人だと、褒めたり、怖がったりしていました。

 作右衛門はある日、庵原の杉山という部落を通りかかりました。
 ふと見ると、一つの大きな石の回りに、5~6人の力の強そうな大人の人たちが集まってガヤガヤと相談していました。
 「何だろう?」と作右衛門がのぞき込むと、大きな石碑をどこかに運ぶために、皆で持ち上げようとしているのですが、あまりに重くて持ち上がりません。
 「何だ、おまえらは意気地がねぇだの、俺なら一人でこんな石の一つや二つ、軽く運んでみせるわい。」そう言って、スタコラ通り過ぎると、それを聞いた男の人たちは大変怒って、「おまえがそんなでかい口をたたくなら、この石を興津まで運んでみろ。」と言って、一人では運べるはずがないと思って、作右衛門を困らせてやろうと思いました。
 作右衛門はニヤッと笑って、「ほいきた、おやすいご用じゃ。」
 皆がどうするか、とジッと見つめていると、作右衛門はヒョイと軽そうに石碑を背負って、スタコラ歩き出しました。
 通りの家の人たちはみんな飛び出してきて、作右衛門の力の強いのにびっくり。
 そのうちに、作右衛門は鼻歌を唄いながら大きな石碑を興津まで運んでしまいました。興津の人たちもびっくり。こんな力の強い人は見たこともない。
「是非、名前を聞かせてください。運んでくれたお礼に石碑に名前を彫らせましょう。」と言いましたが、作右衛門は、「こんな簡単な仕事で、ワシの名前を石碑に彫るなど、とんでもねぇこった。」と言い、聞き入れません。仕方がないので石碑の底に作右衛門の名前を彫ることでようやく承知したということです。Photo
 今でもこの石碑は興津の甲州道の入り口に建っています。本当に石碑の底に作右衛門の名前があるかどうかわかりませんが、皆はあると思っています。

 写真が興津の甲州道入り口に立つ、民話の石碑です。

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その2

 両河内の民話 大平「四つ乳作右衛門」 その3

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2011年1月16日 (日)

両河内の民話 西里伏木「藤の花」

2  昔、西河内の西里の伏木と言うところに祀ってあった氏神様の社が古くなってしまった時のこと。
「この社もだいぶ痛んできたのう。」
「氏神様もこれじゃぁ、あんまり気の毒だ。」
「村の衆をずっと見守ってくれている神様だんて、ひとつみんなで直してやるずら。」
そうして、社の修繕のために森の木を木挽きに切らせることにした。
 木挽きは境内にある一本の大きな木に斧を入れ始めた。
  コーン、コーン、コーン
 するとどうしたことか、その木に巻かさっていた藤がもう10月だというのに、たちまちに立派なつぼみを付け始めた。
    コーン、コーン、コーン
 木挽きが腕を振るう度に藤のつぼみはぐんぐん大きくなり、とうとう、斧を入れることができない程に花々が咲き乱れた。
 あまりにあたりが物凄くなってしまったので、木挽きは青くなって庄屋様のところへ駆け込んだ。
「大変だ庄屋さん。藤の花がすごくて、おらぁとっても怖くてこれ以上木は切れないだ。」
「ようし、大丈夫だ。これからわしが行って藤の花を散らしてみよう。」
そう言って庄屋様は境内へ出かけていった。なるほど藤の花が立派に咲いている。そこで庄屋様は歌を詠んだ。
 “藤咲くや 見事に咲いた 森の藤 木挽杣(そま)に 色をやるべし”
 すると不思議なことに花がみるみる間に散っていった。そうして木を切ることができ、その後も何のさわりもなかった。昔から森の木を切る時は神様に理由を言ってから切るものだと言われている。

西里伏木の白髭神社

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