両河内の史実

2012年2月14日 (火)

竹澤義夫氏宅跡地

120210_2 以前、西里地区への地名変更の際に出た「竹澤義夫氏」。昭和初期に学習院の先生だった方ですが、出身地は河内の中村地区であることがわかりました。
 では「中村のどこ??」、となるわけですが、聞き回りましたら、今では別の竹澤さんが暮らしている所でした。
 ここのジィさま(昭和7年生まれ)にお話を聞きましたら、
 「オヤジが竹澤義夫先生の家を買った」とのこと。「俺が3歳ぐらいの時(昭和10年頃)だから、広い家だったことは覚えている」、「広間に囲炉裏があって、チビだった俺がはしゃいで転げ落ちて鍋をかぶって今でもやけどの跡がある(と首筋の火傷跡を見せてくれる)」。
 とにかく、あまりに広い家だったので、家自体は小河内の人に売って今の家は大平で買って作ったとのこと。ですから、この家が竹澤義夫氏の育った家ではありません。この土地に古い家があったのです。
 このジィさんの話しによると、どうも直系の家は絶えてしまったようです。しつこく、これからも調べてみましょう。

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2011年12月 9日 (金)

河内奥の沢稲荷神社

101226_2 先日、河内の史跡などを巡ったオリエンテーションを行いましたが、その際にポイントとしたところで、まだ当ブログで紹介していないところを載せてみましょう。

 最初に奥の沢にある「稲荷神社」。「おいなりさん」と地元では呼ばれていますが、正式名称は「稲荷大明神」。西河内すじには「白髭神社」が一番多くあります。西河内だけでなく、両河内全体で見ても稲荷神社はここだけ。どうしてできたのでしょうね。経過もわかりませんし、色々調べてみましたが、できた年代も不明です。

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2011年4月27日 (水)

布沢 善光寺

Photo  たけのこ祭りで、毎年、多くのお客さんが来る、布沢地区。この祭り、正式には「善光寺とたけのこ祭り」といいます。その善光寺は、たけのこ祭りの会場となる場所の近くにあります。しかし、殆ど訪れる人はいなくて、祭り会場のにぎわいと比べると、えらく淋しいですな。
 ここは、武田信玄が駿河に進講して江尻城を築いた当時、軍用道路として整備された道の近くの高台にあります。善光寺はいつ創建されたのか、不明だそうですが、ここから、信玄などの行軍を眺めていたのでしょう。

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2011年4月11日 (月)

神楽石発見!!

Photo_2  河内二ノ宮神社が最初にできた場所として、日本武尊が休んだ陣地跡が発祥の地として「二ノ宮神社社伝」に書いてあるそうです。しかし、その神楽石がどこにあるのかわかりませんでした。神楽石のある元沢の方に聞いても、「さぁ???」。
 そこで二ノ宮神社の宮司も以前されていた方に聞きましたら、「ここいらじゃないか、行ったことはないけれど」、とのこと。早速「ここいら」へ行ってみました。
 神楽石と云うからにはそれなりの大きさの石か何か、だろうと思い探していましたら・・・ありました・・・これだよ、多分・・・。杉の植林の中なので最初はわかりませんでしたが、山の斜面に突き出すように大きな石が三つほど三角形に積み上がっています。こんな奇石なら神楽石と云われるのもうなずけます。三つの石の高さは10m程でしょうか。下の沢からは30mもあるでしょうか。これなら古い街道からもよく見えたことでしょう。現在でも植林や雑木がなければなかなか見応えのある風景になるでしょうに。
 一番近くの民家で80才を超えるジィさんを訪ねて聞いてみましたら、「神楽石だよ」。やった!!ただ、そのジィさんも二ノ宮神社の祠が大昔にあったことは知らない、とのこと。それでも、神楽石が見つかっただけでも先ずは大きな収穫でした。

 二ノ宮神社歴史探訪

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2011年2月10日 (木)

西里区名改称こぼれ話

Photo  先日紹介した「西里区名改称記念碑」の裏には以前記事にした、「深沢貞雄」氏と「竹沢義夫」氏の氏名が掘られています。
 両河内公民館の館長に両氏の名前を確認したところ、「詳しいことはワカランが、竹沢さんは学校の校歌を作っているぞ」とのこと。さっそく調べてみたら、両河内中学校の校歌を作った方でもありました。中学で校歌がいつできたのか、等調べてもらうことになりました。やはりこの学習院の先生であった、竹沢氏は両河内に関係する方のようです。
 それと、校歌の件で、もう一つ驚いたのは竹沢氏は両河内中学校校歌の「作曲」をなさっていたのです。作詞でなく、作曲でした。音楽を専門にされていた方だったようです。ますます興味がわいてきました。

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2011年2月 8日 (火)

西里区名改称記念碑

Photo  現在の「西里」の区名が「炭焼」から変更した件については何度か記事にしましたが、昭和14年に建てられた区名改正の記念碑がありました。
 場所は西里の「宮城(みやしろ)」地区です。バス道路沿いで唯一自動車が対面通行できない、道幅の狭い区間にありまして、歩いて通る人はほとんどいないところです。実は私も毎日のように車で前を通りますが、この碑をしみじみと見たのは初めてです。枯れ枝などがかぶさっていて、それを取り除いて写真を撮りました。
 近々、道路拡張工事が行われる予定もあるので、その際にはもっとわかりやすいところに移るのではないかな。

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2011年2月 4日 (金)

大平 大通院の創立はいつ? その4

 だいぶ前に大平の大通院創立について、記事にしました。その際、「真珠院取調べ書」の記載について紹介しました。その中で賢窓常俊和尚が大平へ寄った時に記述が興味深いので紹介しましょう。
 賢窓常俊和尚は各地を行脚していたのですが、その行脚の中で大平に来たわけです。

庵原郡大平村に至る唯僅かに四軒の百姓あるのみ土地幽○(「遂」にウ冠)にして霊気あり法身修業に恰好なり
 ・・漢字は一部変更

 当時の大平の様子がわかりますね。なるほど、「四軒の百姓あるのみ」か。本当に人里離れた山奥だったのですな。ちなみに現在の大平地区の世帯数は66です(自治会加入世帯数)。

 写真はその大平地区にある石仏群です。Photo_3

 大平大通院の創立はいつ???その1

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2011年1月22日 (土)

「西里」への地名変更の経緯 その2

 以前、両河内地区内の「西里」は昔、「炭焼き」部落、と呼ばれていたのを改称した、と記事にしました。その際、「西里」の名前をつけるにあたって、いろいろご指導いただいた人がいたらしい、云々・・・、と書きましたが、色々調べてみましたら、弁護士の「深沢貞雄」氏と学習院教授の「竹沢義夫」氏であることが判明しました。
 さっそくネットで調べましたら、両者とも昭和初期頃、それぞれの立場でご活躍だったようです。しかし、この「深沢」姓は西里地区に多い名字ですし、「竹沢」姓は隣の河内地区に多い名字です(私の家の地区でも17軒中8軒が竹沢性)。両者共に両河内出身で東京にて活躍していた方だったのでしょうか。両河内中学校の卒業名簿でも、そのうち閲覧させてもらおうかしら。興味は尽きません。

 「西里」へ地名変更の経緯

 写真は、その西里の河合野地区にある八雲神社です。Photo
 西里には「六社」ありますが、ここだけが八雲神社。他は全て白髭神社です。これも何故なのかな???

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2011年1月20日 (木)

河内の大石(安産石)の史実 その2

 河内の大石を真富士山の中腹にあった昔は「八斗石」と呼んでいたのですが、何故、「八斗」なのでしょうか?「斗」は尺貫法での体積(容積)の単位です。しかし、八斗がこの石の容量でないことは確かです。それぐらいではあまりに小さい・・・。
 と考えていましたら、古老の話として残っていました(昭和の時代に両河内中学校で高齢者に生徒が聞き取りをした資料)。それによると、
 ・・・安政の地震などで落ちてくる前、その石の平らなところに小豆を干すと、「八斗干せた」・・・、というのがいわれだそうです。
 これは大きい。現代風に言えば、灯油のポリタンク8個分の小豆が広げられたわけですから。

 また、「安産石」のいわれも、Photo_2
 ・・・岩と岩の間の狭い沢を流れてきた・・・、のでこの名が付いたそうです。

 写真は、その「大石発祥の地」、近くの山の斜面に あった石。こんなのがゴロゴロしている山です。

河内の大石(安産石)の史実

河内の大石、発祥の地

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2011年1月19日 (水)

西里 和田の西国供養塔

Photo  西里の和田の道路沿いにある供養塔です。いつできたのか、判別は全くできません。
 言い伝えによると、「江戸時代に村内で疫病が流行り、何人もの人が亡くなったので、各家の戸主が西国へ巡礼に出てお寺参りをして、帰ってきたところで亡くなった方の供養のために立てたもの」、とのこと。
 実は西河内筋にこのような西国供養塔など、供養塔が数多くあります。昔は疫病をはじめ、自然災害で一度に多くの方が亡くなることが多かったのでしょう。

 河内の大石が流れた、安政の地震と大雨(台風?)による土石流、それに伴って衛生状態の悪化、疫病の蔓延・・・と色々想像されます。どちらにしても江戸時代の話しでは、詳細は今となってはわかりません。供養塔に手を合わせるのみです。

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