梶原景時史跡めぐり

2016年1月13日 (水)

萬福寺

160111 1601112  東京都大田区南馬込にある「萬福寺」。先日、東京へ仕事で行った際に時間を見つけて寄りました。
 JRの最寄り駅からだいぶ遠くて、正直言って行くには不便な場所。檀家か、地元の人しか知らないこの寺へ行った理由は梶原景時の墓があるからです。
160111_2 160111_3  梶原景時は鎌倉時代の武士。居を構えていたのは私の実家のすぐ近く。そして、死んだのは清水。鎌倉を脱して西へ向かう景時一行の戦いは清水の地で当時の東海道(今の北街道)沿いで繰り広げられました。5年ほど前、そのその史跡などを取材して、清水区柏尾地区で行われた催しで市民対象に話しをしたことがあります。ブログにも記事にしてカテゴリーを分けてあります。

 そんな梶原景時の墓を詣でたい、と常々思っていましたが、やっと念願がかなったわけです。名馬「磨墨(するすみ)」もいました。感無量。合掌。

 ↓ 梶原景時史跡めぐり ↓
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2011年5月27日 (金)

梶原景時史跡めぐり その16 塔婆山はどこ?

 以前、梶原景時らの死を悼んで長尾氏が建てた塔婆の場所はが今では地名が残っておらず、柏尾峠か?と記事にしましたが、その後他の資料を調べてしたら、北沼上に「Photo外場山」と書いて「そとばやま」があり、ここがその場所のようです。写真で見ると、梶原山が見通せる場所にあります。なるほど、そうだったのか。上沼上のどこが外場山なのかわかりませんが、その内にまた訪れてみましょう。

 梶原景時史跡めぐり その15

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2011年5月 2日 (月)

梶原景時史跡めぐり その15 番外編

Photo  梶原景時の史跡めぐり、実は今回調べて発表したのは前回の「14」でおしまいです。今回は高部庄を中心とした清水での史跡を紹介しましたが、「葵区の農家にするすみ(馬)の頭骸骨が残されている」、など、おもしろい話しもありましたので、また改めて調べてみたいと思っています。
 私は神奈川県の茅ヶ崎出身ですが、私の実家の近くに高座郡寒川町があります。その寒川町の茅ヶ崎に近いところに「梶原景時の屋敷跡」が残されています。清水で討たれるまで、ここ「相模の国一宮」に住んでいたのです。
 この屋敷跡の近くに「七士の墓」
Photo_2 がありますが、私の知人宅のすぐ裏手です。高校生の頃から話しは聞いていましたが、梶原景時は私とも少なからずご縁があったのかな、とも思ったりしています。

 梶原景時史跡めぐり その14

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2011年4月22日 (金)

梶原景時史跡めぐり その14 塔婆山??

Photo_4  大内や柏尾から山を越えた長尾にいた豪族の長尾氏は梶原と同族でした。その長尾氏が梶原山と向かい合う形になっている山の上に塔婆を立てて、景時を供養しました。そこは塔婆山と言っていましたが、現在ではその名は残っていません。柏尾峠がそれではないか、との説もあります。さて、真相はどうなのでしょう???

 梶原景時史跡めぐり その13

 梶原景時史跡めぐり その15

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2011年4月21日 (木)

梶原景時史跡めぐり その13 梶原堂

Photo_2  景時と一緒に自害した景高の子、景俊は梶原山の自害した地に祠(ほこら)を建てて、傍らに景時親子三人の墓を作ります。この祠を「梶原堂」と言います。その後、160年して、景時の八代の孫、景慶(かげよし)が矢崎山の山腹に梶原龍泉院(寺)を建てて、景時とその一族を祀ったとされます。
 そして時代が移り、明治元年の神仏分離令で龍泉院は廃寺になり、残された梶原堂は昭和37年に東名高速道路の建設工事の際、山腹から現在の大内の地へ移されます。

Photo_3  右側の並んだ石碑が梶原親子の墓です。
 現在でもこの地域では3月の第一日曜日に供養際を開いています。

 梶原景時史跡めぐり その12

 梶原景時史跡めぐり その14

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2011年4月14日 (木)

梶原景時史跡めぐり その12 清水市史

Photo  また、「清水市史」第一巻によりますと、梶原親子などの首をさらした場所は現在の高源寺(史跡めぐり その6)ではないか、とされてします。
 その首をさらした場所が、東関紀行の記述にある石を高く積み上げた墓となり、後に高源寺移転してきて、「その6」で紹介した「不尽乾坤燈外燈」、の碑が立てられたのではないか、と推測しています。

 梶原景時史跡めぐり その11Photo_2

 梶原景時史跡めぐり その13

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2011年4月13日 (水)

梶原景時史跡めぐり その11 東関紀行

1  さて、東関紀行(とうかんきこう)という本があります。これは作者不詳ですが、1249年に京都から鎌倉までの旅道中を記した書物で、後の平家物語や松尾芭蕉などにも大きな影響を与えた本です。その中に、
「ある木陰に石を高く積み上げて、目に立つさまなる塚あり。人に尋ぬれば梶原が墓となん答う。」
とあります。

4  この東関紀行は景時が死んでから約50年後に書かれた紀行文ですので、景時の墓は亡くなってからすぐに建てられたことがわかります。時の権力から疎まれて討たれた者の墓が、その死から程なく作られたのは異例ともいえるでしょう。そこには、景時が死んでから何年も経たぬうちに、社会情勢が変わりその死を悼むようになった背景があります。

 梶原景時史跡めぐり その10

 梶原景時史跡めぐり その12

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2011年4月 8日 (金)

梶原景時史跡めぐり その10 景時親子終焉の地

Photo_4  それから、親子三人は山頂の林の中の草の上へ静かに座りました。景時は矢立を取り出して、
「もののふ(武士)の かくこ(覚悟)もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみおしけれ」
と辞世の句をしたため自害します。享年は、生誕の年が判明しませんが、61才といわれています。
 その後、この山は梶原山と言われるようになり、現在でもそう呼ばれています。山頂には供養碑などが立ち、駿河湾の眺めがすばらしい(特に夜景?)、観光スポットとなっています。
 
2120 景時が没した正治2年は西暦では1200年ですが、1月20日当日の月齢はこのようになっています。景時は、こんな月を眺めて自害したのでしょうか。

 梶原景時史跡めぐり その9

 梶原景時史跡めぐり その11

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2011年4月 7日 (木)

梶原景時史跡めぐり その9 駒喰笹

Photo_3  また、この鬢水付近にあった笹は景時の愛馬「磨墨(するすみ)」が食べて、その後生えてくる笹は葉先が全部枯れて生えてくるようになったので、この笹を「駒喰笹(こまくいざさ)」と今でも言います。先日行った際にはまだ冬だったせいか、笹はまだありませんでした。
 この「磨墨」という馬、かなりの名馬だったようですが、景時の子、景季が佐々木高綱と戦陣を争った「宇治川の先陣争い」の際に乗っていた馬も「磨墨」といいます。時期を考えると同じ馬とは考えにくいので、名馬に同じ名前を付けたのかな、と想像しています。静岡市葵区の旧家には、この磨墨の頭蓋骨が保存されているとか。また、全国各地に磨墨を葬った墓もあるそうで(東京大田区の磨墨塚など)、歴史的な有名馬といえるのでしょう。

 梶原景時史跡めぐり その8

 梶原景時史跡めぐり その10

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2011年4月 6日 (水)

梶原景時史跡めぐり その8 鬢(びん)水

Photo_3  景時らが分け入った山ですが、矢崎と瀬名の境の尾根づたい進むと、通称「夕日無山(ゆうひなしやま)」といわれた279メートルの山なのです。この山頂には、わき水が出ています。私がいった時も冬の雨が降らない時期でしたが、水がチョロチョロ出ていました。
 山頂にわき水とは奇妙に感じがありますが、これは北にある竜爪山(標高1,000m強)からの伏流水が湧いているのです。
 この水で、景時らは顔を洗い、鬢(びん)を洗い乱れを直しました。それでここの水を現在でも「鬢洗い水」または、「鬢(びん)水」と言っています。

 梶原景時史跡めぐり その7

 梶原景時史跡めぐり その9

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